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あるいは 前田多門が知られているのは、その娘の存在によるのかもしれない。美智子との交流で知られることになる多門の長女の名を、神谷美恵子という。前田陽一はその兄である。おそらく、『生きがいについて』(みすず書房)1966 がもっとも知られた著作だろう 1078.2

あるいは 前田多門が知られているのは、その娘の存在によるのかもしれない。美智子との交流で知られることになる多門の長女の名を、神谷美恵子という。前田陽一はその兄である。おそらく、『生きがいについて』(みすず書房)1966 がもっとも知られた著作だろう #大脱出1939 1078.2
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前田陽一『西歐に學んで』(1944年8月の記述)

ヴァイオリンのS孃も、妻と子供達が急に一緒に發つことになったのを知って、荷造や子供の世話に貴重な時間を割いて下さった。その晩のうちに連合軍が入城したらどうしようという相談迄行われる程に急迫した事態であった。

1078.5

前田陽一『西歐に學んで』(1944年8月の記述)

ヴァイオリンのS孃も、妻と子供達が急に一緒に發つことになったのを知って、荷造や子供の世話に貴重な時間を割いて下さった。その晩のうちに連合軍が入城したらどうしようという相談迄行われる程に急迫した事態であった。

#大脱出1939 1078.5
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翌1939年10月18日早朝04:30。朝永振一郎や訪欧陸上選手団らをのせた靖国丸が ようやく横浜に入港、帰国した。が、USA に立ちよったにもかかわらず、下船せず米国の最新物理学事情を視察しなかった振一郎は、恩師で理化学研究所 主任研究員 仁科芳雄からこっぴどく叱責されるのである 1079

翌1939年10月18日早朝04:30。朝永振一郎や訪欧陸上選手団らをのせた靖国丸が ようやく横浜に入港、帰国した。が、USA に立ちよったにもかかわらず、下船せず米国の最新物理学事情を視察しなかった振一郎は、恩師で理化学研究所 主任研究員 仁科芳雄からこっぴどく叱責されるのである #大脱出1939 1079
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1939年10月16日11:30。凪いだ穏やかな天候のもと、野上彌生子らを乗せた鹿島丸が NewYork に着いた。彌生子は著名な作家のため、各種活字媒体の記者から取材をうけている。東京朝日新聞社 東京日日新聞社 同盟通信社などで、朝日からは さらに国際電話取材もうけた(次項) 1077.1

1939年10月16日11:30。凪いだ穏やかな天候のもと、野上彌生子らを乗せた鹿島丸が NewYork に着いた。彌生子は著名な作家のため、各種活字媒体の記者から取材をうけている。東京朝日新聞社 東京日日新聞社 同盟通信社などで、朝日からは さらに国際電話取材もうけた(次項) #大脱出1939 1077.1
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野上夫婦と交流した前田多門の長男 前田陽一も、戦後の業績によって知られているだろうか。東大教授として不破哲三や大江健三郎の仏語の師で、明仁にも仏語を教えた。大戦勃発後も駐仏日本大使館に残り、1944年日本人の避難に尽力する。Paris 陥落が迫り Berlin に避難しようと 1078.3

野上夫婦と交流した前田多門の長男 前田陽一も、戦後の業績によって知られているだろうか。東大教授として不破哲三や大江健三郎の仏語の師で、明仁にも仏語を教えた。大戦勃発後も駐仏日本大使館に残り、1944年日本人の避難に尽力する。Paris 陥落が迫り Berlin に避難しようと #大脱出1939 1078.3
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仁科芳雄が異色の物理学者だったことは語ったが、学部生として電気工学を専攻し、院で電気炉を専門とした。理論屋ではなく生粋の実験屋だったのである。しかも、当時最新の器具や装置はすべて米国製。芳雄の焦りが、理論屋の朝永振一郎には真に理解できていなかったのかもしれない 1079.1

仁科芳雄が異色の物理学者だったことは語ったが、学部生として電気工学を専攻し、院で電気炉を専門とした。理論屋ではなく生粋の実験屋だったのである。しかも、当時最新の器具や装置はすべて米国製。芳雄の焦りが、理論屋の朝永振一郎には真に理解できていなかったのかもしれない #大脱出1939 1079.1
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1939年10月13日正午。鎌倉丸が SanFrancisco を発ち、太平洋へと滑りだした。その3日後の10月16日11:30(日本時間17日01:30)、逆に NewYork に到着した船がある。野上彌生子や豊一郎、高柳健次郎 菊池一雄 宮本三郎 中村光夫 石田英一郎ら 仏を脱出した避難者をのせた鹿島丸だった 1077

1939年10月13日正午。鎌倉丸が SanFrancisco を発ち、太平洋へと滑りだした。その3日後の10月16日11:30(日本時間17日01:30)、逆に NewYork に到着した船がある。野上彌生子や豊一郎、高柳健次郎 菊池一雄 宮本三郎 中村光夫 石田英一郎ら 仏を脱出した避難者をのせた鹿島丸だった #大脱出1939 1077
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ちなみに、これがニッポン号の航路表(画:国立国会図書館)だが、10月7日に 実際は Bucharest(Romania) に立ち寄っている。大毎特派員の前芝確三は、自社機の旅程を知ることのできる立場にいた。機長 中尾純利以下、乗員らや親善使節とともに帰国すべく羽田をめざす 1074.2

ちなみに、これがニッポン号の航路表(画:国立国会図書館)だが、10月7日に 実際は Bucharest(Romania) に立ち寄っている。大毎特派員の前芝確三は、自社機の旅程を知ることのできる立場にいた。機長 中尾純利以下、乗員らや親善使節とともに帰国すべく羽田をめざす #大脱出1939 1074.2
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1939年10月3日 London。野上彌生子と豊一郎に電話があった。英議会を見学できる切符が入手できたというのである。Tube で Strand 街 にでたふたりは、CharingCross まで歩き Taxi で議会に乗りつける。すると英首相 ArthurNevilleChamberlain の演説などを肉眼で見ることができた 1071.6

1939年10月3日 London。野上彌生子と豊一郎に電話があった。英議会を見学できる切符が入手できたというのである。Tube で Strand 街 にでたふたりは、CharingCross まで歩き Taxi で議会に乗りつける。すると英首相 ArthurNevilleChamberlain の演説などを肉眼で見ることができた #大脱出1939 1071.6
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湯川秀樹が乗ったのは日本郵船の鎌倉丸(画。秩父丸を改称)である。北米大陸を横断した谷口吉郎と遠城寺宗徳も乗船した。NSDAP 大会参加を断念した東京瓦斯社長 井坂孝や東京女子医学専門学校長 吉岡彌生もいる。また、社会大衆党の代議士 浅沼稲次郎もこの船の客となっていた 1076

湯川秀樹が乗ったのは日本郵船の鎌倉丸(画。秩父丸を改称)である。北米大陸を横断した谷口吉郎と遠城寺宗徳も乗船した。NSDAP 大会参加を断念した東京瓦斯社長 井坂孝や東京女子医学専門学校長 吉岡彌生もいる。また、社会大衆党の代議士 浅沼稲次郎もこの船の客となっていた #大脱出1939 1076
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1939年10月17日。野上彌生子は、Paris で交流した外交官 前田陽一の父のもとを訪れた。陽一と交流したのはその男と懇意だったからで、男は NY の日本文化会館の館長で日本人会の会長もしていた。男の名を 前田多門(画)という。彌生子は10月17日に会い、在米日本人との交流をはじめた 1078

1939年10月17日。野上彌生子は、Paris で交流した外交官 前田陽一の父のもとを訪れた。陽一と交流したのはその男と懇意だったからで、男は NY の日本文化会館の館長で日本人会の会長もしていた。男の名を 前田多門(画)という。彌生子は10月17日に会い、在米日本人との交流をはじめた #大脱出1939 1078
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野上彌生子談

(略)今着いたところです、リヴァプール碇泊中私達は特別の許可を得てあきらめてゐたロンドンへもう一度帰つて見ることが出来ました、開戦と共に火の雨が降ると思はれたのが、幸にも外れたので、一時は大変緊張してゐた空気も少しは緩和されてゐたやうでした

1077.2

野上彌生子談

(略)今着いたところです、リヴァプール碇泊中私達は特別の許可を得てあきらめてゐたロンドンへもう一度帰つて見ることが出来ました、開戦と共に火の雨が降ると思はれたのが、幸にも外れたので、一時は大変緊張してゐた空気も少しは緩和されてゐたやうでした

#大脱出1939 1077.2
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1939年10月2日09:30 NY。9月22日に Sweden の Göteborg を発った Gripsholm 号が入港した。このときの記事が『東京日日新聞』10月4日夕刊に掲載されている。先述のように藤原銀次郎、吉岡彌生、浅沼稲次郎、北昤吉ら16人の日本人が乗りこんでいた。高田特派員は高田市太郎だろう 1072

1939年10月2日09:30 NY。9月22日に Sweden の Göteborg を発った Gripsholm 号が入港した。このときの記事が『東京日日新聞』10月4日夕刊に掲載されている。先述のように藤原銀次郎、吉岡彌生、浅沼稲次郎、北昤吉ら16人の日本人が乗りこんでいた。高田特派員は高田市太郎だろう #大脱出1939 1072
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この時点で、湯川秀樹も JuliusRobertOppenheimer も日米両国が戦争に突入することを知らない(画は戦後)。もちろん、両者が日米で原子核分裂爆弾の開発に携わることなど 思いもよらない。秀樹は20世紀のうちに「原爆」が完成されるはずがないと確信していた。それに対し Robert は 1075.1

この時点で、湯川秀樹も JuliusRobertOppenheimer も日米両国が戦争に突入することを知らない(画は戦後)。もちろん、両者が日米で原子核分裂爆弾の開発に携わることなど 思いもよらない。秀樹は20世紀のうちに「原爆」が完成されるはずがないと確信していた。それに対し Robert は #大脱出1939 1075.1
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野上彌生子の夫 野上豊一郎や、TV 技術者 高柳健次郎も取材を受けたが、この日は日本帝国では10月17日。神嘗祭取材で記者が出払っていた。国際電話の相手が留守居記者で気が利かず、要領を得ないものだったようだ。彌生子らは 健次郎とともに HotelNewYorker(画)に投宿した 1077.3

野上彌生子の夫 野上豊一郎や、TV 技術者 高柳健次郎も取材を受けたが、この日は日本帝国では10月17日。神嘗祭取材で記者が出払っていた。国際電話の相手が留守居記者で気が利かず、要領を得ないものだったようだ。彌生子らは 健次郎とともに HotelNewYorker(画)に投宿した #大脱出1939 1077.3
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鹿島丸に乗ったのは、日本放送協会技研第3部長 高柳健次郎と朝日新聞 Warszawa 特派員 河野健治らである。健次郎は 東京五輪で TV 放送を実現すべく尽力したが、返上後 英米独視察にきて戦争勃発、英から避難した。健治は、WashingtonDC 特派員を命じられて訪米の途次である 1073.1

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1939年10月2日18:50。野上彌生子と豊一郎は、湖水地方から列車で7時間かけて London に帰着した。前回在英時に過ごした家にむかう。2度ともどれない覚悟だったが、彌生子は旧知の日英のひとびとと再会できた。置いてきてしまった日記の整理などをしているうち、ある報せがとどく 1071.5

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すでに語ったように、ニッポン号が羽田を発ったのが 第2次欧州大戦開戦前の1939年8月26日。世界一周して羽田に帰り着くのが 2週間後の1939年10月20日である。10月7日の Bucharest 寄港は航路表にも載っていないうえ、前芝確三が搭乗したことも ほとんど知られていない 1074.1

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前田陽一の1944年避難行は 先述の『西歐に學んで』に描かれているが、すでに語った Violinist の女や その支援をしていた朝永振一郎と Leipzig で同宿だった外交官の男も登場する。「S嬢」こと諏訪根自子と、のちに夫となる大賀小四郎のふたりだが、詳細は原著にゆずる 1078.4

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